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釈迦と思想家

ペタについては”ばてた愛犬”をどうぞ。


実りを得たいときには先ず穀物の種をまきます。仏教も同じです。仏教ではそれを「下種」と言います。


私が聞きかじりのお話をするのも「下種」であり、この稚拙なブログで仏教のお話をするのも何かの縁ですね。


この種は、現代流に言えば発芽率何%か分りませんが、種をまくという「因」がなければ、発芽という「果」はありません。故に仏教では大切なことです。



仏教が誕生した頃というのは、それまで大きな力を持っていたアーリヤ人とインド先住民族の混血が進んでいました。

また商工業の発達等によって価値観も多様化していました。そういった新しい時代の流れの中から、それまでの権威を認めない様々な思想家たちが誕生しました。

当時は、仏教もそのなかのひとつだったのです。

沙門果経(しゃもんかきょう)という仏典では、仏教以外の六人の思想家を、六師外道と呼んで紹介しています。

この「外道」という言葉は「道を外れた者」を意味し、見方によっては非常に失礼な表現なのですが、ここではひとまず「仏教以外の者」という風に考えておきましょう。


彼らの思想は、今日的な視点から、唯物論、決定論(もしくは運命論)、懐疑論、快楽主義、苦行主義、虚無主義などといったラベルを貼られています。


、現代的な意味とは多少中身を異にする場合もありますし、複数の考え方に跨るようなものもありますので、「~論」「~主義」という名前で一括りにすることはできません。



それでは、以下に彼ら六人の思想家の見解を見ていきましょう。

アジタという人は、地・水・火・風という4つの元素だけが人間を構成すると考えました。

そして、善業楽果(良いことをすれば、結果も良くなる)・悪業苦果(悪いことをすれば、結果も悪くなる)を否定し、死んだら無となるという説を唱えました。


パクダも似たような考え方ですが、要素の数を先ほどの4元素に苦・楽・霊魂を加えた7つとする点が異なります。

彼ら2人には、唯物論的な考え方が共通していると言えます。また、プーラナという人物も、善業楽果、悪業苦果を否定し、その見解は道徳否定論などと呼ばれています。


この道徳否定論的な側面は、先の2人にも共通していると言えるでしょう。


ゴーサーラという人は、生き物は先の4元素に虚空・苦・楽・霊魂・得・失・生・死を加えた12の要素から成ると考え、すべては運命によって決定されていると唱えました。


また、サンジャヤは、「来世があるかないか」などといった、明確な答えの出せない問題に対する判断中止を唱えました。

サンジャヤの説は、不可知論、もしくは懐疑論、ゴーサーラの説は、決定論、宿命論などと呼ばれていますが、ここにも道徳否定論の入り込む余地があります。


ニガンタ・ナータプッタは、物事に関する一面的な判断を禁じ、その説は多面主義(非極端説)、不定主義、相対主義などの様々な名前で呼ばれています。


彼は、現在も残っているジャイナ教の実質的な開祖でもあります。このジャイナ教については、時を改めて説明できればと考えています。


では、彼らの思想を大胆にまとめるとどうなるでしょうか? 人間はモノからできていて、死後は無になる唯物論、あるいは死後の存在があるかどうかは明確でない懐疑論、不可知論。

ということは、良いことをしても悪いことをしても来世にその報いはない道徳否定論、もしくは結果はすでに運命によって決まっている運命論、決定論。


だったら、何をやっても良いじゃないか。自分の好きなことだけをやって、楽しく生きようではないか(快楽主義)といったところでしょうか? 


現代でも同じですが、こういった発想というのは、当時のインドの人たちには大きな脅威だったと思われます。


しかし、道徳否定論、快楽主義などと言いながらも、世俗を離れた生活をしていたっぽいところが、何ともインドらしい。


続きます。

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仏 教

ブッダが悟りを開いただけでは仏教は始まりませんね。それが人々に説かれて、はじめて後まで伝わる仏教となります。

ブッダは最初、自ら悟った真理は到底他の人にはわからないだろうと考えて、そのまま悟りの境地を味わって涅槃に入ろうとした。それを惜しんだブラフマー神(梵天)がブッダに三回懇願して、そこではじめてブッダは人々のために教えを説こうと決心したという。

ブッダはまず、(鹿野苑)で、かつて苦行を共にした五人の修行者たちに教えを説き、五人はその教えに感服して弟子となった。

これが最初の説法(初転法輪)であります。こうしてブッダの説いた教え(ダンマ=法)、ブッダに従う弟子たちの集団(サンガ=僧伽)が具わることになった。
ブッダ(仏)・ダンマ(法)・サンガ(僧)をあわせて三宝という。

以上の事を頭の隅において、これから何回かに分けて書くことを読んでいただくと仏教を楽しめるかも知れません。



「仏教」と聞くと、皆さんは何をイメージするでしょうか? 「葬式」や「法事」といった,人の死に関わる行事を思い浮かべる人が多いかもしれません。

このように現代の日本では、私達の身近な場面に仏教という宗教が入り込んでいます。世界史の教科書を見ても、仏教はキリスト教・イスラム教と並んで三大宗教の一つとされています。

しかし、仏教の起源をたどってみると「仏教=宗教」という側面はそれほど強くはないのです。それでは、仏教がいつどこで生まれ、どのように伝えられて、我々日本人に身近な宗教として感じるられるようになったのでしょうか?

仏教は今から約2500年前のインドで誕生しました。キリスト教が紀元後まもなく、イスラム教が7世紀前半に誕生したとすると、仏教は三大宗教の中では最も歴史が長いということになります。

キリスト教の名前が「キリスト(神)の教え」に由来するように、「仏教も「仏」(ほとけ)の教え」に由来します。ほとけとは、仏教を開いたガウタマ・シッダールタのことを指します。

「ほとけ」とガウタマ・シッダールタがどうして同じものなのかという疑問が湧くと思います。実はガウタマ・シッダールタには別名が数多くあって、「ほとけ」もその1つなのです。

「ほとけ」の由来にはいくつかありますが、その中に「ブッダ(buddha=仏陀)」の音に漢字をあてたという説があります。「ブッダ」とはガウタマ・シッダールタが悟りを得た後に名づけられた尊称であり、「目覚めた人」すなわち「この世を貫く真理を理解した人」という意味です。

英語で仏教を表す"Buddhism"もこの「ブッダ(buddha)」から派生しており、「ブッダの教え」を意味しています。その他に「シャカ(釈迦)」という呼び名もあります。この呼び名はガウタマ・シッダールタがシャカ族の出身であることに由来しています。

【十号 仏教における十号(じゅうごう)とは、仏陀の10種の称号を意味する。如来十号とも言う】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%8F%B7


「ほとけの教え」を簡単に説明しますと、仏教では、この世は苦しみに満ちており、現実は汚れや苦悩に満ちていると見なします。

この見方は、一見して非常にネガティブに聞こえるかもしれませんが、日常を振り返ってみると「好きな人に振り返ってもらえない」「嫌いな食べ物が入っている」といった不満を毎日のように私たちは感じていることに気付くはずです。

仏教では、このような現実を「苦しみ」ととらえ、この「苦しみ」から抜け出して穏やかな心になることを目指していきます。


「苦しみ」から抜け出す方法について、仏教は「正しい理解を得ること」だと説きます。つまり、最初に苦しみにあえぐ現状をありのままに「理解」してから、次に自分が苦しんでいる原因についてはっきりと「理解」し、最後にこの苦しみを鎮めるための正しい方法を「理解」して穏やかな心を手に入れます。


この一連の流れを見ると、病気の治療法によく似ていると思いませんか? 「苦しみ」という語を「病気」に置き換えてみるとそれがはっきりすると思います。

自分が病気であることを知り、その原因を突き止めた上で、医者から薬を処方してもらい、医者の指示通りに薬を服用すれば病気は回復します。

このように仏教は「正しい知」というものを非常に重んじており、「知恵の宗教」と呼ばれる由縁はここにあるといえます。

仏教と関係はありませんが、儒教の中国や韓国国民の言動を見ていると、余りにも自己中心で あるように思えます。

これは後ほど述べることにします。

続きます。


自殺して亡くなった者は成仏しないと聞きましたが本当でしょうか



ある宗派の、あるご僧侶の、質問に対する答えです。以下

五木寛之さん著作の「人生の目的」(幻冬舎)に出ておりましたが、バブルの崩壊が始まった平成3年の自殺者は19、875人だそうです。

それが平成10年は3万人の大台を超え、警視庁調べでは32、863人だったそうです。

これは前年より34.7パーセントの増加率で、特に50代では45.7パーセントの増となっております。

企業のリストラの影響もあると思いますが、根底には自分の未来に希望の持てない人々が増えている結果ではないかと思います。


そしてそれは家庭や社会でちゃんとした宗教教育がなされてこなかったツケがまわって来ているような気がしてなりません。

「生かされて生きている」という宗教観・人間観の欠如です。


*  *  *  *

質問にお答えします。

『自殺して亡くなった者は成仏できない』とは誰が言い出した事でしょう。

他の宗教はいざ知らず、決して仏教はこんな事を言いません。

成仏した・していないは私たちには分からないことです。

何を根拠にこんな事を言うのでしょう。

殺生罪でしょうか。

ご存じのように仏教では不殺生戒という戒律があります。

ものの命を奪ってはならないという掟です。


すべてのものの命を平等に見る仏教では、人間のために存在している命は一つもありません。

牛も豚も鶏も魚も植物も鯨もイルカも虫も細菌も、すべての命は平等で尊いものであると考えております。

そこには、「牛は良いが鯨は殺してはならない」といった理論がありません。

極論すれば「ハエは殺して良いが人間はダメ」といった考えを持たないのが仏教です。

ハエも人間も同じ尊い命を生きていると考えるのが仏教なのです。

そのような教えの上から見ますと、魚や動・植物を毎日食べ続けている私たちと、自らの命を絶った者とどのような違いがあるのでしょうか。


他の命を殺しても成仏できるが、自分を殺した者は成仏できないというこの考えが仏教にないことは明らかです。

つまり、自他の命を奪うという、不殺生戒を破った者が成仏できないならば、地球上のすべてのものは成仏できません。

釈尊は「死の縁無量」と述べられました。

これは、私たちが亡くなっていくのは何が縁となるか分からないということです。病気が縁となるかも知れません。

交通事故、あるいはバナナの皮で滑って亡くなるかも知れません。


どのような亡くなり方であっても亡くなり方によって成仏が決まるとは一言もおっしゃっておられないのです。

自殺も一つの死の縁です。

残されたご家族にとっては無念でならないと思いますが、どうか無量の縁の中の一つと考えていただきたいと思います。

そして大事なことはその死を無駄にしてはならないということです。

殺生罪などの悪を重ねながらしか生きられない私たちのために、阿弥陀如来の大いなる救いがあることを故人を縁に聞くのです。


そして故人をそのような尊い縁と受け止められたとき、私たちは故人の成仏を確信するのです。
 

娘の初盆を前に考えて見ました。



線香の燃える時間

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テーブルの上の一本

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