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三昧(さんまい)【画像追加】



読書三昧、ゴルフ三昧、遊び三昧などと日常使われているように、一つの事に熱中して他の事に心が向わないことを〇〇三昧と呼んでいます。

この三昧の意味は、インドの語サマティを音訳した語で、精神を一つの事に集中して乱さないことを言い、仏道修行上大切な仏教語なのです。

それぞれの宗派の開祖といわれる高僧は、比叡山やそれぞれの修行の地で修行三昧をされて今日に伝えられています。

このように、三昧は、精神集中で頻繁に使われる言葉なので一般にも浸透していったと思われます。


しかし、道楽三昧、刃物三昧などはちょっと困ります。




一昨日は娘の月命日でした。

速いものですね、嘆き悲しみながら半年経ちました。


三昧とまでは行きませんが、朝の勤行は欠かさないように心掛けています。


娘に回向する基本ですから。


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億劫(おっくう)

めんどうくさくて気の進まぬことをよく「おっくう」といいますが、これは仏教語の億劫(おっこう)がなまったものです。

劫とは仏教でいう極めて長い時間で、縦・横・高さが40里(157キロ)の石山を長寿の人が100年に一度、柔らかい衣でなで、この石山が擦り切れてもまだ1劫は終わらないとか、

40里四方の大きな城に芥子の実を充満させ、100年に1つずつその実を取り、全部なくなっても、まだ1劫は終わらないとか説明されています。

阿弥陀仏の「五劫思惟の願」はその5倍ですから、随分長い間、お考えになられたのですね。

さらに、億劫はその1億倍ということですから、気の遠くなるような時間です。『教行信証』に「真実の浄信は億劫にも獲がたし」の億劫がそれです。

毎朝の読経の中にもたくさんの億劫が書かれています。(法華経)

そんな長い時間を考えるのは、めんどうなのか。気の進まぬ仕事は時間がかかるのか。とにかく、億劫が「おっくう」になりました。(笑)


絵理香の残してくれた思い出
この中の5~12に中学から高校にかけて父のHpのお絵描きで描いたものがあります。ご笑覧ください。


阿吽(あうん)

 相撲の仕切りは「阿吽の呼吸」を合わせます。吐く息、吸う息を合わせるのです。

社寺の門前のコマイヌや、山門の仁王様は、一方が口を開いて「ア」、他方は口を閉じて「ウン」と、阿吽の姿をしています。

インドの文字である梵語(ぼんご)では、最初が「ア」と口を開いて出す音声で「阿」と訳され、最後は「フーン」と口を閉じて出す音声で「吽」と訳されています。

日本のアイウエオで始まる50音図は、この梵語の配列にヒントを得て、それに基づいて整理されたものといわれていますから、同じく「ア」で始まり「ン」で終わっているのです。

このように、阿吽は、ものの始まりと終わり、出息入息を示しています。

密教では、阿吽を、根源と帰着、菩提心と涅槃などの象徴としているともいわれているようです。

夫婦間でも、会社の上下関係でも「阿吽」の呼吸が失われているのは悲しむべきことでしょう。

政治家にも「阿吽」の呼吸の解るのがいなくなった。



みなさん、何事にも、阿吽の呼吸が大切なようです。



仏間では京都の友人から送られてきた初盆のお供えと、スズムシの絵の回り灯籠が静かに回っています。



諦め(あきらめ)

男と品格は☆こちら☆から


どうにもならないことをくよくよと考えないで断念することを「あきらめる」といいます。

お釈迦さまは、悟りを開かれた後、ベナレスのミガダーヤで5人の友人たちに、初めて法を説かれました。

初転法輪(しょてんぽうりん)と呼ばれているのがそれで、その説法の内容が「四諦」の教えでした。


諦とは「まこと」とか「真理」という意味で、動詞として読むときには「あきらめる」すなわち、「明らかに真実を見る」という意味なのです。


お釈迦さまはその悟りの内容を、苦諦(くたい)・集諦(じつたい)・滅諦(めつたい)・道諦(どうたい)の四つの真理に分けて教え、それを見ることによって、真理を知ることができると説かれました。


だから、諦という語は、現在のように消極的な用い方ではなく、真理を悟るという力強い語なのです。

しかし、その時、自分一人の力ではどうにもならないことを悟るのが、本来の意味なのかも知れません。

こちら

不請不請(ふしょうぶしょう)

不請不請、承知してしまいましたよというように
不請不請は、不承知ではあるが仕方なしに
いやいやながら、しぶしぶ、不本意という意味の日常語で
不承不承と書く場合もあります。

気の進まない顔つきを不請顔といいます。
この「不請」は、もともと仏教語で、経典に出てくるのです。
でも、意味は全く違います。
 

不請とは、請い望まれなくても、救いの手をさしのべることで
仏・菩薩の慈悲救済の性格を語る言葉なのです



だから、仏・菩薩のことを「不請の友」といいます。
無量寿経には「諸の庶類の為に不請の友と作(な)り」
とあり、また「普く衆生の為に、不請の友と作(な)り」
とあるのがそれです。

「衆生請はざるに友となって之を安ず」とあるように
人々から請願しないのに、慈悲の心を持って
進んで教化し、救う真の友です。
 

大変有り難い友ですが、われわれ凡夫の社会では
おせっかいといわれそうで、つい不請不請・・・・
 

みなさま、いい一日を



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